石鹸

準備で雑巾を使った小学低学年の児童に、私は石鹸で手洗いするように注意した。
いつもなら私が口を開かなくとも中学生ら彼らの先輩が差配するのだが、偶々そこに居たのは同学年の児童のみであった。すると「先生、石鹸がありません」と一人の児童は言った。そんな筈は無い。液体石鹸は切らしたが、固形石鹸が水回りにある筈だ。朝イチで確認済みである。「台所か洗面所をよく観なさい」私がそう言ったぐらいの頃に小学高学年が来たので彼らに面倒を見るように言った。すると、彼らからも同じ回答をした児童がいたのだ。私は訝しむ思いだったが、ふとピンと来たことがあった。そこで「石鹸と聞いて思い浮かべるのは液体か、それとも固体か? 」と質問をした。低学年の回答は圧倒的に液体で中には固形石鹸を知らない児童まで存在した。
面白いと思った。私の中では石鹸は固体が当たり前であり、いつしか液体、さらに泡と化した石鹸が世に出た時は画期的な思いをしたのだが、価値観は時代とともに変化して行くのがこの世の常だ、液化した石鹸であるから液体石鹸と付けて呼んで居たものが、いつしか概念が逆転し石鹸は液体であるものと言うのが主流となったように思った。固定概念は日常から生まれる。そもそも石鹸と言う言葉も明治初期にフランス語の『シャボン』と呼ばれていた物が、明治後期に硬質固形のアルカリ性加工物の意味を漢字を宛て出来た造語で、当時流行りだった造語の一つだった代物が広辞苑に乗る正当な名称として使われるようになったのだ。
先人からこう教わったからこうなのだと決めつけるような固定概念に捉われるのではなく、卵が先か鶏が先かに通ずる柔軟な思考は発想の領域を広げることに繋がるのではないか、当たり前と言う考え方から脱却するべきことを彼らから学んだ気がした。