祖父江先生を偲んで

三年ぶりのブログ更新である。
理由は旧ホームページがウイルスにやられてデータがぶっ飛んでしまったせいである。
マメにスパムを削除していた筈だが、ちょっと気を抜いて少しサボったら悲しい現実が待っていた。
初回のブログは立ち上げて三年ほどの道場と記してあるが中間のブログが跳んだので、実際それから七年経過している。
その後、ホームページは一から作り直してからの再スタートであるが、更に一年以上ブログ更新が手間取った。

それは恩師である祖父江先生が亡くなったことによる私の気持ちのせいである。
先生はこのブログをチェックして頂いた数少ない御方であったが、恩師との関係をスルーして差し障りのない話題でブログを更新するわけもいかず、かと言って故人との思い出に浸るには重すぎて、第三者に公開することも有り表現の方法に悩みに悩み手に付かずにいた。
だが、最近、ありのままの思いを手記にすればいいことに気付き本文に着手した。

ほぼ十年前、同好会の頃から後援して頂いたT先生の他界に伴い、その頃修業先であった道場の規模縮小とT先生の奥様の後押しがあり、藤流館を立ち上げることが出来たが、その実、前途多難であった。
何故なら初回ブログに記した通り、私の修行過程は他の方々と著しく順番が違うからだ。
三十代前半で藤流館の礎である同好会を任されて運営することになり、同好会の頃をT先生の道場の庇護の下十年過ごし、藤流館立ち上げの時、私はまだ四段で道場長としては弟子の昇段審査の審査員の資格すらない半人前であった。
藤流館を一端の道場にするためにも私自身の早急なる昇段を余儀なくされ、次の修業先を探すことになった。

そのためには昇段推薦の資格の持つ七段以上の師範が在籍する道場が必要条件となり、修業先の選択は理念や技の質などよりライセンスを優先した。道場選びは理念よりもライセンス、全くもって不遜であるが、誰かに「不遜だ! 」と後ろ指さされようと、その頃の私は背に腹は代えられない状況にあった。

最初に見学に行ったのは明倫塾であった。明倫塾を最初に選んだのは単純に交通の便が最適だったからだ。見学して一週間後、私は次の修業先を明倫塾に決めた。
技の質やレベルは抜群であったが、決め手は見学後の先生のお言葉だった。
見学の際に私は修業先の探す理由を包み隠さず言葉にした。すると、こう先生が仰った。

「そうだな、段位と言うものは自分と言うより弟子のためにあるものだからな」

私は他の道場を見学する旨を先生に告げその場を去ったが、先生のお言葉が耳を離れない。結局、他の道場を見学することなく明倫塾に入門を決めた。
よくよく考えると私の合氣道人生はいつも成り行き任せで縁に導かれ従った感がある。だが後にも先にも自分で選択したのは、次の修業先を明倫塾に決めた、これ一つだけである。これだけは自ずから縁を掴みに行った感があった。

もう既に長文になってしまっているのでここで締めるが、明倫塾ではそれまでの私の考え方や価値観が大幅に改変し大いに学んだ、只管感謝である。

最後に祖父江先生のご冥福をお祈り申し上げます。

                                合掌